<後悔>
不都合な現実のない人生はありえない、都合がいい展開も常にはありえない、それは不可抗力が働いているので避けられないからです。
大切なのは、不都合な現実から、なにを学ぶかで、その基になるエネルギーは後悔することなのです。後悔は事態や結果に向き合わないと生じないし、成長、変化には欠かすことが出来ないもので、不都合は不都合と結論付けるのは表面的見方です。
不都合な現実が生じてからの展開には、2つのパターンがあります。
1.不都合な現実→悲観、逃避、運、他人の責任として認識するのは、マイナスで後悔する気持ちは生じにくい。
2.不都合な現実→向き合う、冷静な分析、自己責任として引き受ける。その結果として後悔し、克服に向け行動を起こす。
この違いはどこに起因しているか? 事態の冷静な分析には、客観性はもちろんですが、向き合うには、主体性=自発性=自立的要素の意識の差なので、それは、目的を持った自発行動での失敗と目的を持たされての受動的行動の失敗では後悔する気持ちの強さが異なるのです。
主体性を得やすくするためには、成功体験を積み上げることです。それにより、主体的な目標設定を誘発することになり、成功による自信を持ち得て更なる主体的な目標設定しチャレンジしていくわけです。
後悔することの意義でもう一つ大切なことがあります。
それは自己をより深く知る事です。
不都合な出来事や問題の発生は好まれない現実ではありますが、注意深く観ると、それを引き起こしている基には様々な環境因(人、出来事、場面)に個性(スキル、性格、思考、感情)が出会い、現象が生じます。つまり原因と結果です。また結果は個性としての傾向が反映されやすく、事象に違いがあれど近似した結末を示し易くなります。それは自己に向き合う機会を与えられたことになるのです。
例を挙げると、短気で頑固な人の場合に色々な環境因に対してその結末は、人との摩擦が起きてしまうことが多いわけです。繰り返されるわけですから苦痛に感じます、そうであれば苦痛の原因は何か?に注目せざるを得なくなります。それで自分の性格(クセ)が災いしていると分かれば後悔をして改善に向けての意識を持つことになります。一方で環境因に問題があって自分は悪くないと結論付ければ、苦痛な出来事が繰り返されるわけです。
次に発達障害を例を挙げて説明しましょう。
ADHDを抱える小学生A君が、授業中、暇なので前席のB君によくちょっかいを出していて注意を受けていましたが、A君には悪気が感じられず、改善されない状態にありました。ある時,A君が自分の消しゴムがB君の椅子の下に転がったので「とってくれ」とB君に頼みましたが、B君は無視したので、頭にきて殴り合いのけんかになりました。
この場合、日頃のA君のB君に対する行動とA君の認識の中にB君への罪悪感が希薄さが、よくない行動を持続させたことで、B君が強い悪感情を抱いた結果であることです。これはA君の抱える、ADHDによる影響の一つである、後先考えない、感情に任せた自己中心的行動で、悪意を持ってB君にちょっかいをかけていないので悪いことをしている認識が持ちにくいのです。これらの背景から抱えているA君の問題と環境因(授業中ひま)が作用して発現をしています。
通常では問題(行動)と扱われますが、A君にとっては貴重な学び課題なわけです。
仮にA君にとって授業に興味がもてることであれば、ちょっかいも出さなかったでしょうし、一番前の席に座らせればよかったかもしれません。それは、外部から問題をでにくくしていることで、A君の本質にアプローチしていることではないのです。確かに問題は出にくくなるのですが、問題が解決されたのではありません。問題を抱えているのに外部から出にくくすることでよしとするのは不十分で、A君が自己の問題に気付きを促す良い機会ともいえるのです。気付くことで後悔をする機会が与えられたことになり、意識変化による事態改善のためのモチベーションを高めて行動変容していき適応していくきっかけにもなりうることです。
このように環境因がたまたま個人に都合がいい、ストレスの少ない状態が続けば問題は出にくいのですが、それはいいことでもありますが、人との摩擦を起こしやすい要素が改善されたわけではないので、いいこととも言い切れない面があります。