<意識と言動>
考える(決める、決断する)、感じる(願望、要求、嫌悪・・・)などの意識を経て言動を起こしています。
意識したことに意識することがあるか? と聞かれると意外にも意識することがあまりないと思います。
たとえば、~は~だと思う。~したいなど、発生したその意識になぜそう思うかということです。
決すると特に支障がないと疑ったり、再考することはほとんどないと思います。
しかし思った通りの展開にならないと、どこがいけなかったのか、自分の思いや考えに意識を向け、疑問符をつけることもあったり、外部(運や人のせいなど)のせいにすることもあると思います。
注意すべきは、外部のせいが100%で起こったと判断した場合で、当事者自身としては0%になるわけで、それ自体が誤った判断となっているわけです。つまり事態に対して100%外部に委ねることになるわけで、当事者の判断とか言動は無効で不適切性に関与してないことを意味していることになります。よって不適切な状況を放置し、事態は硬直または悪化しやすくなるのです。
もともと人は正しくもあり、間違う前提があるわけで、本来は、結果の如何を問わず、事態を客観的に捉え、その原因に意識を持つべきなのです。
起こっていることをどう認識するか、目に見える現実は誰がみても同じですが、その意味づけ(捉え方)には個々により差があります。
言動の源は意識なのでその意識が状況において、おおよそ適切および妥当な判断ならば、言動もそれに連動し適応的な結果に収まるものです。
通常、人が不適切な判断や言動をとれば、その間違いを指摘し、適切な判断と言動を勧めますが、素直に聞き入れないことが多々あるものです。
頭ごなしに否定された場合は、人の話を素直に聞くことの妨げとなりますので注意すべきです。
つまり言動を変える意識や働きかけを積極的に行うより、事態を客観的に見て原因と結果、影響に意識を向けることを実践していくことなのです。
そのために当事者がどう感じ、どう考えているのかの把握が必要になります。
それは丁寧に聞き取ることです。信頼関係を築けますし、当事者の思考パターンや心情がつかみやすくなります。
次は、事態を客観的に捉えることと自己の判断と言動は適切であったがどうか当事者に気付くように問いかけることです。
この一連の取り組みがうまくいくと、気付いた度合いに応じて自己修正が進んでいくのです。