<知ること、知らないこと>



私は、当事者の方やその家族の話を聞くとき、どう支援するかをあまり意識していません。
それは、私に中に後悔と教訓があって、それは、実態を充分に把握してなくて見立てを誤ったことがあるからです。
○○問題には、一般的にこうする的支援はありますし、「□□先生の講演会で、△△が、いいと言っていた。」とか書店に行けば、それなりのハウツー本には巡り合えると思います。それを鵜呑みに使用するにはリスクが伴うものです。人が違っても類似していれば、使いたくなります。
しかし、環境、教育、性格、原因、問題の過程は、違うので、当たり前ですが、その人に合った適切な支援は、その人しか通用しにくいのです(たまたま同じ場合もありますが)。
物事が生じるには、全て偶然でなく、起こるべくして起こった理由があります。
話を聞いていて現象の原因が分かると「~であるから~のアプローチが適切であろう」が導きやすくなります。それは、現象が生じるプロセスの中を注意深く見ていくと答えがあるからなのです。
私が知りたいこと、分からないことを当事者に聞く事で「聞いてよかった」といつも思いますし、注意せず、トラウマを聞いてしまった以外には、聞かなくてよかったで、後悔は一度もありません。
家族の方と話をしていて、私が分からないことや聞きたいことがあって質問すると「知らないんです」「~ですかね?」の返答をよく耳にします。で私は「聞いてみてくださいね」とお願いします。次回会った時、どうであったかを訊ねると「~は知らなかった」「予想していなかった」など戸惑ったり。びっくりされた反応によく遭遇します。でも家族から「聞くべきでは、なかった」と聞いた記憶はありません。むしろ聞くことでより当事者の状況が分かるのです。たとえるとピースの多いジグゾーパズルをやっていてそれが何の絵であるか調べていく作業のようなものです。必ず真実は、あるし、それを求めることは、的を得た支援になるし、当事者側に立てば、自分に興味を持たれるわけですから嬉しいわけです。
日本の文化には、「察する」ことを礼儀の一として 捉えています。これは、時と場合によります。
気を回して聞かないことより、知ることで適切な支援が導かれるなら当事者に断って聞くべきで、意外に抵抗なく説明してくれるもです。