支援について思うこと




<はじめに>

私が学生の頃、昭和55年に関東のある総合病院でアルバイトしていた時に、診断名が「未成年?」と付いた。十代前半の男性で、コミュニケーションは取れますが、どことなくぎこちない表情、筋肉があまり付いていないやせ方をした体型でした。その男性は大きなトランポリンの上に寝かされ上下に振動させられたり、やわらかい布のようなもので皮膚をなでるなどの感覚統合療法を行っており、私は、その補助をしていました。その療法を受けていた男性は、今、多くの人が知る発達障害を抱えている、おそらく自閉症スペクトラムに該当する男性であったように思います。これがきっかけのすべてではありませんが、学校卒業後には小児に関わる仕事をしたいとの思いを持ち、小児施設を探していたときに紹介された、ある国立療養所に昭和59年に就職しました。その施設は重度の脳性麻痺、筋ジストロフィーの専門施設で当然それらの方にリハビリテーションをすることだと認識していたのですが、私の上司(外科医)と小児科の先生が、乳児健診で、おおよその発達に大きな遅れはないが、歩行獲得後に、行動やコミュニケーションなどに問題が出ているケースがいるが見てみないかと言われ、そこから再び発達障害を抱える子どもたちとの出会いが始まりました。
 当時は、発達障害の用語は積極的に使用されず、「学習障害」の用語をよく使われていたと思います。出現率は、おおよそ人口の2%程度で・・・学習や行動、コミュニケーションなどに問題があり・・・と言う説明で昭和60年ころだと思いますが、NHKで取り上げられたことを記憶しています。同時期に自閉症、注意欠陥多動障害につても専門雑誌に取り上げられることが増えるようになりました。これら発達障害の出現率はかなり高いにも関わらず、社会的な認知度、教育的、社会的ケアーも不十分でした。
ケース会議や講習会活動を通じで教育関係者への啓蒙活動をしたものです。
 気がついてみると発達上の課題や不登校など不適応状態にある方やその家族の方との関わりを持ち始め30年を過ぎ、出会った方は約1100人あまりになりました。
 対応が必要な領域は、医学、心理、教育、生活、就労と多義に渡ります。また問題は単発でなく他の問題と関連しあって影響が出ます。振り返ってみると、人により問題やその背景、経過は勿論異なりますが、診断名が違っても、年齢が違っても、環境が違っても状態が良くも悪くもそうなるが故の指標のようなものがあることに気づいていきました。これは、特別で難しいことではなく、考えてみれば当たり前のことのような気がします。このことを多くの方に知っていただき、何かしらの参考になれば幸いです。


<今の時代に生きること>

現代は、速いこと、効率がいいこと、要領がいいこと、情報を多く持っていること、利潤を求めることが、よいこととされ、また有能評価される時代です。しかし発達に課題を抱えたり、集団になじめない状態にあることは、この波に乗りにくい条件を背負って生きることになります。これをどう捉えるか・・・生活条件で見れば軽い現実でなく、重いのかもしれません。だから克服や軽減に着目をされることは、自然な流れになります。確かに教育や環境により、適応状態が変化するもので、この可能性にエネルギーを注ぐことになります。
 この現象とそれへのアプローチの流れは、一見、理にかなっているように見えますが、見過ごされやすいことがあるのです。当たり前ではあるのですが、現状の問題をよくないことと捉えることからスタートしていること、つまり問題=否定的に見てしまいやすいことです。問題解決に関心が行けば、行くほど、意識していないわけではないのでしょうが、当事者が抱えて生きている現実とその思いに注目されにくくなる現象が起きやすくなることです。当事者には、言葉でなくとも自分が肯定的に受け止められているかどうか感じ取ります。
 日頃から大なり小なり比較評価で辛い思いをして、自己否定的感情を持ちやすい状況に加え、周りから肯定的に見られていない場合には、支援への適切なモチベーションが得られるか? 支援への影響はどうか? ということになります。
たとえですが、旅行をするときに目的地まで、新幹線、飛行機、電車、車のどれを選ぶか、目的地まで早く行くことを優先させるか、道中にあるものを時間をかけて見て回るかで楽しみ方が違ってくるし、経験できない、出来ることの違いが生じます。これに優劣をつけれないと思いますが。
人にも同じことが言えることで、それぞれの違いと違いがあるがゆえに他の人には経験できないこと、時には苦しいし、重いこともあるけど、乗り越えたり、感動したり・・・そこから学ぶことも多いのも事実です。


<振り返って想うこと>


過去を振り返り何が起こったのか、どう判断したのか、どう想ったのか、良かったのか、そうでなかったのか、失敗か、成功か・・・色々な角度から評価出来ます。
過去を振り返る意味は、過去に学び未来に生かしていく、そのためなのでしょう。
でも過去に強烈な出来事があれば、後にトラウマになることや思い出したくない出来事もあります。時に記憶から一時消去され、記憶を曖昧にしていることもあります。
これは、意識的な操作で無く、無意識的に行われるようで、自分を守るための一種の防衛反応なのかもしれません。
辛い過去であれば、思い出したくないし、辛いし、終わったことだから意味がない、過去は変わらないのだからと捉えれば、そうかもしれません。
 過去の負の出来事に対して負と決すると陰性感情、たとえば、運命のせいにしたり、自己嫌悪感による落ち込み、責任転嫁による被害者的意識、嫉妬、怒り、不安などの苦痛な心境を持続することになります。
しかし不適応状態からの回復過程で、多くが過去の自分のことを第三者的に見て、後悔し、自己目標を持ち、努力していく、また精神的安定、成功体験による自信の回復、自分にとって必要なことの持続的行動が起きてきます。それぞれ、ほぼ時期を同じくして出現していき、苦痛な心境から徐々に脱していきます。
 回復過程への初期段階においてもっと大切なことは、人間関係を通じて自分の思いを言えてそれを受け止められていると実感出来ることです。


<回復・成長・適応>


気になっていたことが少なくなった。または、無くなった。ちゃんとできるようになった。成長してしっかりしてきたなど・・・好展開にシフトしてきた証の一つです。時期的なものか、働きかけか、本人の努力か・・・様々な要因があると思います。
経過や結果が良いのだから、今更、原因がどうのこうの言っても意味がない、でいいのか? いいえ違います。原因は分かった方がいいし、分かっておくべきだったは,とても大切なことです。
 何かしらの不適応状態を示せば、それを解決するためにいくつかの支援をしていくわけです。
よくみられる支援に不適応になりにくくするための環境調整で、賞罰による行動の管理支援、指示に従わせるいわゆる説教型支援、求める要求水準を下げたことで注意されることの減少がストレスの減少になり不適応行動を減らす、不適応容認支援など、いずれも他者による操作でコントロールされた場合で、当事者の自己の問題意識が希薄な状態にあります。一時期好展開であっても多くが時間経過とともに以前にも増して不適応が再生されてきます。
こうなれば真実(原因と結果の因果関係)と違って指導力や当事者のやる気に原因を求められることが多いようです。
ある支援をしていて上手くいかなければ、別の方法をとると考えてもよさそうですが、どういうわけか、不思議と今までの支援を強めていく経過をたどる例が多いようです。
結果はもちろんよくないです。的が外れていますから。
 不適応行動とは、体の外傷と違って放っておいたり、薬を使えば治る、全く外部治療で改善する性質のものではありません。当事者自身が自分のおかれている現状を多少とも理解し、変えて生きたい意識が必要なのです。
もう一つ大切な指標があります。それは、不適応行動が減ってきても起こしやすいクセは残っているので必ず、本人にとって避けがたい苦痛や都合のよくないことを招きやすく、それによるストレスが生じます。
 目の前の問題と向き合い、乗り越えようとする意識と行動が出ていれば、変化・成長と捉えてよいと思います。


<知ること、知らないこと>


私は、当事者の方やその家族の話を聞くとき、どう支援するかをあまり意識していません。
それは、私に中に後悔と教訓があって、それは、実態を充分に把握してなくて見立てを誤ったことがあるからです。
 ○○問題には、一般的にこうする的支援はありまし、「□□先生の講演会で、△△が、いいと言っていた。」とか書店に行けば、それなりのハウツー本には巡り合えると思います。それを鵜呑みに使用するにはリスクが伴うものです。人が違っても類似していれば、使いたくなります。
しかし、環境、教育、性格、原因、問題の過程は、違うので、当たり前ですが、その人に合った適切な支援は、その人しか通用しにくいのです(たまたま同じ場合もありますが)。
 物事が生じるには、全て偶然でなく、起こるべくして起こった理由があります。
話を聞いていて現象の原因が分かると「~であるから~のアプローチが適切であろう」が導きやすくなります。それは、現象が生じるプロセスの中を注意深く見ていくと答えがあるからなのです。
 私が知りたいこと、分からないことを当事者に聞く事で「聞いてよかった」といつも思いますし、注意せず、トラウマを聞いてしまった以外には、聞かなくてよかったで、後悔は一度もありません。
 家族の方と話をしていて、私が分からないことや聞きたいことがあって質問すると「知らないんです」「~ですかね?」の返答をよく耳にします。で私は「聞いてみてくださいね」とお願いします。次回会った時、どうであったかを訊ねると「~は知らなかった」「予想しいなかった」など戸惑ったり。びっくりされた反応によく遭遇します。でも家族から「聞くべきでは、なかった」と聞いた記憶はありません。むしろ聞くことでより当事者の状況が分かるのです。たとえるとピースの多いジグゾーパズルをやっていてそれが何の絵であるか調べていく作業のようなものです。必ず真実は、あるし、それを求めることは、的を得た支援になるし、当事者側に立てば、自分に興味を持たれるわけですから嬉しいわけです。
日本の文化には、「察する」ことを礼儀の一として 捉えています。これは、時と場合によります。
気を回し過ぎないで聞かないことより、知ることで適切な支援が導かれるなら当事者に断って聞くべきで、意外に抵抗なく説明してくれるもです。


<コミュニケーション>


あなたは、どうやって友達を作りましたか? とたずねられるとまず、出会いがあってお互いのことを知り、気が合うし、一緒にいて楽しいので・・・と答えると思います。
相手を知る最大の手段は、態度、雰囲気、表情でなく、言葉なので、それを介して互いが持っている色々な情報をやり取りしているはずです。
 支援においてまずは、当事者を知ることが大切であると「知ること・知らないこと」で説明しました。
しかし当事者の思いや考えを周囲の人が理解・受け止めが不十分であるケースが多いのです。知りたくないはずはないと思いますが、周囲から見ると目の前の問題に目が行きやすくなり、よくないことを注意する。適切な行動を説明して、それに従うように話をするパターンを取りやすいのが、その理由です。
「今の時代に生きる」で説明しましたが、当たり前の対応であるように問題をいかに減じるか、なくすか、その手段を強く求めれば求めるほど、当事者の気持ちや経緯は軽視されやすく、一方的な働きかけになりやすいものです。
それを受ける当事者にとっては、いい気持ちはしません。自分は否定的に見られていると感じやすくもなります。また相手が求める評価に自分が当てはまらない事が多いと思えば、話しネタも少なくなります。結果、一日に起こった出来事をごく当たり前に話すことに抵抗を感じる状態に置かれます。
 生活をしていて誰でも何かしらの問題に直面します。自己解決出来ることもありますし、人に助けを求めることもあります。
当事者の手に余るような問題に直面した時に発信も出来ず、周囲も気付かず、また気付くことに遅れた場合、かなり深刻な状態に至っていたことは、そう珍しことではありません。
 不適応状態にある人の問題の根源は、意識(思考・感情)にあり、可視化が難しい領域なのです。表情や態度、行動である程度のことは、分かるにしても、やはり、当事者の口から言葉として聞くことには、かないません。
 進路のこと、就職のこと、これからのこと、悩んでいること、これら当事者にとって必要な事を決め、解決するには当事者が主体的に参加しないといけないわけですが、日頃から円滑なコミュニケーションが取られていない状態で重要な話しをしようとしても当事者から避けられて、事態が硬直してしまいます。
先ほど、問題の根源は、意識(思考・感情)にあると言いました。適切な行動が増えた、不適応な行動が減ったなどの好展開であっても、当事者が自分の意識を表現していくことで自分の置かれている事態がどの程度、把握されているか、されていないか、行動変化と意識が一致しているかどうかの検証していく際にとても重要になります。
それは、意識を把握せず、行動に焦点をあてると適切な行動が、実は過剰適応であったことが分かり、不適応行動が出現したら以前にも増して状態が悪化することがあるので注意が必要なのです。
コミュニケーションは、まさに支援において根幹です。


<不安について>


不安は、生きる上で生じる、自分を守るための感情の一つです。
不安なことに対しては、予測、準備し、不安なことが実体化すれば対応して処理します。
ここまでは、妥当と思われる認識と行動です。
 しかしトラウマや感受性が強いと過剰になりやすいものです。
過剰になると磁石のように不安に関連した不安を呼び込み不安が膨張してしまい、それによる明らかな判断の誤りや不適切な行動を招いてしまいます。また同時に心的疲労が高まって活性を失ってきます。必要ある行動であっても手がつけにくくなってしまい、そういう自分に自信がもてなく、自己否定的感情が強くなり、それが不安膨張に加担する負のスパイラルにはまっていきます。
 不安は未来のことで今、目の前に存在しているわけではありません。これが事実なのですが、不安が強くなると「○○不安が存在する確実に・・・」強い観念と確信を持ち、リアリティのある捉え方をして苦痛を伴います。ここまで来ると意外にも自分が通常でない状態であるとの自覚が低いもので、他者による介入が必要となります。
現況の事実確認、不安の存在とその可能性の検証をしていくと、確かに不安実態はないと気付くのですが、厄介なもので、これら検証、確認の理性的判断をしたのに関わらず、観念や確信は強く、そちらに流されることはしばしばです。
 不登校になった子どもたち、またはその履歴を持つ人の中に不安を具体的に口頭で訴えないケースが多く、自身の心の中に溜めこんでおり、時間経過とともに語る場合あるのですが、そうでないとかなりの心的苦痛状態を持続させていることになり、精神衛生上危機的な状態に陥る場合もあります。
防ぐには、まずは、心の中にある不安を表面へ出す作業がとても大切になるわけですが、当事者にとっては、デリケートな内容であることや不安を上手く表現できない場合もあります。
これは、短時間で簡単に進められる作業ではありません。大切なことは、寄り添う人と当事者の人間関係作りになるわけです。
その中核は、信頼関係と円滑なコミュニケーションなのです。


<認識の歪みと欠落>


発達障害には、いくつかの型がありますが、共通しているのは、認識の歪みと欠落といえます。コンピューターにたとえると情報を分析処理するために10のソフトを起動させることが必要だとしましょう。それが5~8くらいしか起動せず、時々、誤作動を起こすこともある。そうすると、どんなことが起こるか・・・正常な分析処理していない、実態に合わないデーターを真実だと判断します。ソフトがきちんと起動していないことを知らず、示されたデーターが正しいと思いこみ行動するわけですから、色々な不適応行動が出てきてストレスが加わるわけです。
だったら、どうするか? ソフトに不具合があって、それが原因で色々問題が出ていることを当事者に伝えるべきであると多くの人がそう思うし、そうするでしょう。
しかし、そうならないことが多いものなのです。
それは「コミュニケーション」の項で説明した、意識は可視化されにくいこと、すなわちコンピューターのソフトがその機器の中でどう分析処理されているのか見えないのと同じで見えるデーターは、人であれば言動なのです。分かりやすい、見えるところであるから着目されやすいのでしょう。
 支援に結びつけていく一番重要なことは可視化されないところと言動プロセスや結果の関連性であるのです。しかしながら、この関連性について当事者や周囲の人に着目されているかといえばそうでないケースが多いのです。可視化されている問題ある言動をどうするかに着目され、リスクのある対症療法的支援を行いやすくなるわけです。さらに不適切な判断とそれに基づいた逸脱的行動の持続は、発達障害特有の問題以外に対人関係の軋轢や孤立を強め、心的の深刻な問題を生じさせる危険性があるのです。
認識の歪みと欠落を知り、その影響を検証していき、因果関係を知ることは、まさに「知ること・知らないこと」の項で説明したように状態にマッチした支援へと繋がっていくのです。


<ミスマッチ>


物事、状況にマッチした対応をとると事態はスムーズに処理されます。
ミスマッチはスムーズに処理されず、逸脱行動などの問題を起こし、負の影響を与えます。
これらは当然のことで、最初からミスマッチを狙う人はいません。しかし、結果としてミスマッチを起こしているケースが多いのも事実です。
どうしてそうなるか・・・目の前に起こっていること、その原因に目が向いていない、見えにくいのがその訳です。
 面談していてよく耳にする言葉があります。それは「普通は、 常識的に、 ~すべきは当然です、 ~はできて当たり前ですよね」などです。
この目標に手が届くことが、当たり前の感覚なのです。特別に高いハードルでは、ないので、結果が出せないと、やる気がない、ふざけている、性格や気持ちの問題として片づけられることが多々あります。
 上手くいくためには「~をしなさい、 ~してはだめです」など具体的教示をします。
確かにちゃんとやってないのだから叱られたり、注意されたり、教示されることは、当たり前なのかも知れません。でも何度も同じことを言っても変化がないと本当に分かっているのか? 出来ないのではないか? 疑ってもいいと思いますが、出来る、すべきが前提で捉えているからでしょう。
あとで、事態の成り立ちを理解しようと冷静に見ていけば、求めることと、それが出来ることには隔たりがあって、結果が出せなかったが分かってくるのです。
 家庭内暴力、警察の介入、精神病院への処置入院、引きこもりなど深刻な状況に陥っているケースの過去には、必ずミスマッチがあります。ミスマッチがわかって初期の段階でマッチングへ移行すればいいのですが、当事者や周囲が困惑した事態になって対応の模索を始めます。だから状態の重度化を招いてしまったのです。では、何も気にならなかったか? 予兆はなかったか? というとあるのです。
当時は「たいしたこととは思わなかった。何とかなるのではないか」くらいの捉え方で放置されていて後に現状の始まりで、防ぐ余地があったことが分かると「まさかこうなるとは、 こんなはずではないのにちゃんと対応しておけばよかった」など強い後悔をされます。逆に原因に目が向かないと重症化ゆえの切迫化に心が奪われているので事態を冷静に見る余裕もなく解決方法を求めても思ったような解決や軽減が進みません。
 重症化とは、病気の進行によるものもありますが、大抵は、対人関係の感情もつれで、ミスマッチによる誤対応に始まりを見ます。
 重症化しているからもうよくならないか、ダメなのかというとそうではなく、時間はかかりますがもつれた紐を解くように、原因と結果を知り、それに愛情を持って接すれば事態にマッチした環境となり徐々に好転していきます。
 ミスマッチは、まさに事態を正確に捉えていないことで、結果を要求したり、事態の解決の模索から、知ることへ意識をシフトすれば防げることなのです。


<ボーダレス>



障害があるのかないのか、病気なのかどうか、それはなんという障害や病気なのか・・・
気になることです。障害や病気にはその診断をつけるにはルールがあります。それは診断するに必要な条件で、それを満たせば診断がつくわけですが、全てがスムーズにいかないものです。人為的に枠組みを決めているのが、その訳です。本来、自然界には、ここからここまでが普通で、ここから異常である明確な枠組みは、ないのです。だから障害や病気によっては、枠組みを決めても後に矛盾等が生じ、基準や名称が変わっていくのです。
例えば、色彩において赤と白においてその中間色には、ピンクがあります。赤とピンク、ピンクと白の間には無限に近い色が存在しています。その色の選別をしていくことは難しいですね。
赤、ピンク、白は、この色ですと紹介することは分かりやすいし、何らかの指標がないと困るのは事実です。
実際、臨床場面では、明確なA障害もあれば、AとBの要素を併せ持つ、明確なAではないがAの要素を持つという事は珍しいことでは、ありません。診断は、今後どうするかの大切な指標になるには違いありませんが、同じAであっても程度、背景、環境、性格・・・違う事はたくさんあり、同じ状態の人はいません。
つまりA、Bは、支援していく大まかな指標で個別には状況に応じての支援になります。ですから大まかな指標に偏ると個別的対応でミスマッチを起こしやすくなる危険性が出てきます。
また明確な病気や障害でなくても様々なストレスや問題ある環境下において色々な問題が出て生活適応に支障が出ることもありますし、明確な病気や障害を持っていても生活適応していることもあります。
 障害や病気の有無や程度を知ることは重要ではありますが、こだわり過ぎずに生活適応という枠組みの中で捉えていくことが現実的対応(マッチング)となります。
それは、生活しているし、していくことが、生きる根幹だからです。


<上手くことが運ばない時


思った展開にならない。予想していたより悪い。経過がよくないは、よくないことなので原因を解明して、立て直しを図らないといけません。
しかしこれだけでは、不十分なのです。そこには、よくない中に意味を見出していく、つまり学ぶべきことはなかったか?です。
学ぶとは、対処方法が適切でなかったか、避けることが難しい不可抗力か、事態を充分に把握できていなかったのかを判断して次回に生かすことと自分自身の抱える捉え方の偏りや能力的弱点や性格が反映されたかなどを判断すること、たとえばやる気などの意識の問題か、自己都合的判断をしてなかったか、事態から逃げていなかったか、責任転嫁していなかったかなどが、事態にどう反映されたかを見つめることです。通常、自分に関わる事態には100%が外部的なことに責があることはなく、なんらかの形で自分が事態に介入しているもので、自分で気付き何かしらの操作できるものです。責任転嫁せず、自分を中心として事態を正確に捉える客観性を磨くことで、好転や成功に向けてのモチベーションの高まりと事態の改善で感動を生み出します。成功していればこれらのことの考察や心境は得られないことでもあります。
しかし、事態の受け止め方を自分は悪くないなどの責任転嫁や、失敗はだめ、また上手くいかなくなるのでは、うまくいきにくいのなら避けようとする意識が勝れば対処方を考えず、陰性感情は高まり、自虐的、または他者批判におちいり、事態は硬直化してしまいます。表面的な良い、悪いに傾注しすぎないことが肝要なのです。捉え方により陰陽どちらの方向に行く可能性を含んでいます。 
一方、ものごとが順調に推移しているとき、それは、困難を乗り越えたことか、たまたま、めぐり合わせがよかったからなのかを判断しないと、後に、予想も出来ない、暗転を示すことがあります。
私はよくないことが生じると内心,よかったと思います。本人や家族にもそのわけを説明します。もちろん相手の心理状態や考える方向性をみて、聞き入れ易い状態と把握した上で、ですが、もともと問題の出る要素があるのであれば、形はどうであれ、困った事態が早くに生じた方が、本当はいいのです。
こう説明するとよくない現象がいいのか?と一見、矛盾したように見えますが、それは表面的な見方です。早期対応は慢性化を防ぐし、困難を乗り越えることで成長し、変化がわかるのに一時期、困難を示さないことが、よくなっているのか成長しているのかの内訳も分からず、結果がいいのだからでなく、どうしてなのかと意識して答えを求めることはとても大切なことです。 
生きるうえで物事が上手くいかないことは一様にだれにおいても避ける事はもともと不可能で、それは不幸でもなく、事態を引き受けることで、より深く物事が見え、感動的に生きるためのいわば、必須なことだと思います。



意識の方向性>


相談場面で、将来何になりたい、どんな自分になりたい?の質問を子どもたちにするのですが「よく分からない」と答える子どもたちによく出会います。そういう子どもたちの多くは、受動的意識で「~しないといけないと言われたからしている」など、「どうして~しないといけないの?」の質問に的確に答えにくいようです。指示された行動をしていてもモチベーションが曖昧なのです。これだけで済めばいいのですが、大抵は負荷に対しては脆弱で、困難な事態に対して向き合わず、人のせいにしたりして逃避的行動を取りやすい傾向があるようです。
 本来、何のために、どうしたいのか、こうありたい、必要性がある、などの主体的に目標を持つ意識エネルギーが、モチベーションですが、それが強ければ強いほど、大きなエネルギーとなり困難をも越えて事態の解明、発見、具現化、手に入れたいものを手に入れるなどの行動や結果をもたらせます。つまり意識がどこに向いているのかとその強さがとても大切になるわけです。
主体的な目標が持ちにくいのは、「今の時代に生きる」でも述べたように、時代の価値による目標を求められる環境になりやすいのも一因なのでしょう。
親がこどもにその結果を求める気持ちは、悪いものではありませんが、子どもの状態を知ってそれを受け止めた上で、必要性があり、習得または処理可能なものであればいいのですが・・・
そうでないとミスマッチを起こし、成果が現れにくくなったりして否定的な評価を受けやすくなり、自信を失い、辛い事態から逃げたい意識が強まり、それに対して注意、叱責されるという悪循環にはまりやすくなります。
目標に向け意識エネルギーを注ぎ込むことによって、結果を導きやすくする図式が、意識が希薄もしくは嫌悪と逃避であるなら結果が手に入りにくくなるので注意が必要なのです。


<自分を知ること>


自分のことは、自分がよく分かっている。当たり前ですが、本当か?
本当であるし、そうでもないのが真実だと思うのです。
それは、自分が知っている自分の情報は明らかに人より多いと思います。しかし自分の考えや行動が周囲やひいては自分にどのような影響を及ぼしているかの現実は意外にも意識が希薄である場合が多いものです。それは自分では正しいと思う事柄や常識、~あるべきなどの信念や価値観は、自分にとって当たり前であり、気付けるような特別なことがない限りは疑いません。これに加え自我意識の働きが関与していきます。自我意識を持つことは避けられない現実ですが、問題は、自我意識の強さに比例して目の前の事態や人の気持ち・立場を客観的に判断することに支障が出やすくなることです。
これは人からの方が当人より、よく見えるものなのです。つまり客観視の差で見え方や捉え方に違いが出るのです。「意外にも自分のことが見えてない」はよく耳にしますし、事実よく経験もします。 
 発達障害や不登校状態にある人は、前項で取り上げた<認識の歪みと欠落><不安について>で説明したようにもともと事態を正確かつ客観的に見る力が脆弱であり、それゆえに周囲との軋轢や何らかの適応不全に陥り、強いストレスを感じています。これに加えて自我意識が加わると、事態の客観視から程遠い状態に陥りやすくなります。
実際に当人たちから、自分の問題や特徴とその影響について聞いてみると、よくわかっていないことがほとんどで、なかには、他人事のような意識であったり、問題意識すらもてないケースもあって、こういった場合は大抵、他者から見れば、かなり深刻な状態に陥っています。
しかし自分のことが分かり始めると分かり度合いが増すごとに反比例して不適応行動や問題行動が減弱するのです。それは自分が不適切な認識で不適応や問題が生じて、自分や人によくない影響が出ていることを知るためなのです。
 書店の心理、教育、発達障害関係のコーナーに行くと、~支援とか、Q&Aについて書かれている本がたくさんあります。確かに参考になるとは思いますが・・・
大切なことは、問題に対して外部からどう支援するかを考える前に、当人自身が自分のことをどのくらい知りうるかなのです。
自分のことをよく知らないで問題に他者(外部)が介入して減弱させるより、当人が自分のことを知ることの方が遥かに問題解決へのモチベーションは、高いのです。それは内発的に意識、行動しているので経過や結果もよいし、外部支援とは違い、環境や人による対応によくも悪くも影響を受けにくくなって安定した状態になっていくものです。


自立について>


 自立とは「自分の力で判断し、ひとり立ちをすること」とされていますが、厳密には、全く独りで生きることは無理で、人の支えや協力は必要です。
私は「自分のことは、自分で考える意識と、出来うることから目標を持って努力する行動力、そして手に負えないようであれば人に助けを求め、人に協力をする」だと思うのです。
自分のことであるから自分で何とかしようと思う意識を持てているかどうか、言い方を変えると自分に目が向くことなのです。そうであると同時期に自分と事態を結びつけて考える意識が働き、それに伴って自分はどんな人間なのかを見つめようとします。このことで、短所や長所、自分の心癖が日頃の言動に自他ともにどのような影響が出ているか、理解が進んでいくものです。 この状態は、<自分を知ること>でも述べたように自分を知ることで、問題解決へのモチベーションが高まり、行動を起こすことで事態が好転してきます。   
 生きることとは、自分に関することや色々な出来事に向き合い処理、解決することの連続です。この時に必要になるのは、事態を客観的に捉えて妥当な方法で処理をすることなのですが、客観的に捉えにくかったり、妥当な方法でなかったら、問題が生じ、事態が悪化します。また放置すると、硬直して、いずれも困った状態にもなります。
どうして妥当な方法で処理しにくくなるのか、ですが、それには、<不安について><認識の歪みや欠落>で説明しましたが、不安の強さによる認識の誤認や発達障害による認識の歪みや欠落、これに加え、環境因として<今の時代に生きること>で説明した、社会的価値や判断を一方的に情報や指示を与えられること、それを引き受けて速く処理出来ることが好まれる時代です。認めてもらうには、忠実になろうとするのです。いけないわけではないのでしょうが?・・・逆に事態について考えようとする範囲や深さが狭まり、この事態をどうすべきか、自分は何がしたいのか、何のためにするのか、自分に問う機会が減ってきます。困れば受身的に指示を与えられ、その通りにすればいいわけです。的確な指示が無いと自ら、どう判断すればいいか、どう取り組んでいけば良いのか、つかみにくい。だから頼るし、指示を与えることで速く解決できるから・・・の依存関係ができやすい環境もあるでしょう。  
 本来誰でも、困れば、その原因や打開策を考えて実行していくものです。自分で考え行動したのだから、自己責任です。だから結果がよくなくても人を責めたりしません。 「こうなったのは、親のせいだから責任を取れ」とか言うのでどうしたらいいのか? と相談を受けることがあります。これは、自立心の反対の依存心がそうさせているのです。この問題は、短期間で片付けられるような性質の問題でなく、時間をかけて自立(心)を起こす作業をしなければいけないのです。
自立(心)が進んでいないと、このように責任転嫁したり、しんどいので事態から逃げようとする(向き合わない)、または運命のせいにすること、つまり事態と自分が乖離し他人事のような意識であったり、事実誤認をしているので、事態が解決されにくいのです。そのままに放置されると出来事によっては深刻な事態へと発展しやすくなります。そうするとますます苦しくなり、逃避、責任転嫁、依存の方に意識が強く働く、悪循環に陥りやすいためだからです。  
 相談場面で子どもに、何で~するの? 誰のために? ~どうして、自分の問題は? 自分をどうしたいの? 自分がやっていることの影響など子ども自身のことや子どもに関わることを質問するのですが、戸惑うような反応したり、かなりしんどい状態なのに人にその気持ちが言えないことに気付くことが多いのです。


現実を認めて受け入れること

  嫌な現実を認めることは辛いことです。辛い現実で生じやすい「怒り、嫉妬、焦り、自己嫌悪、被害者的心境、絶望的心境、諦めの境地、自虐的、運命的定め・・・」など重くてネガティブな陰性感情を持つことは、自然だと思います。生じてしまった気持ちもまた現実なので我慢して乗り切ろうとしたり、生じた感情をよくないものだからと否定したり、ポジティブ思考に強引に持っていこうとしては、いけません。それはあるものを否定することで事実を歪曲することになるからです。すぐには気付きにくいのですが、歪曲されているので心理的に負荷がかかり続けた状態になっており、時間経過とともに何かのきっかけ、多くは些細なストレスで抑えがたい上記の陰性感情が再び出てきて、自らを傷つけ、程度によっては、他者をも傷つけることになります。 ではどうするか?
陰性感情を持つに至った原因の多くは、自分にとって不都合なこと=自分の要求通りにことが進まないことであることがほとんどで、そうであるならそう自覚してみることです。 事態を自分の都合のいい状態にしようと思えばこの自覚作業は進みません。自覚作業が進んでくると陰性感情は少なくなってきます。そうするともう受け止める心境に近づくのです。
同時期に事態を等身大に捉え易い心理状態になり、事態を客観的に見えやすくするのです。 客観的に捉え易くなれば、後は、事態を好転、解決に向けての今できることの計画や方法について考えて行動すればいいわけです。  
 現実を受け入れないでの目標や計画は、基礎がしっかりしていない建物を建てるようなもので、的が外れていたり、行き詰まりや不安定さ、継続の困難さを生みやすいのです。 そうであるがゆえに現実逃避し易く、事態に意識を向けず放置し、後に硬直化を生みやすいので一時的には楽な状態であっても後に苦痛が生じます。
前項の<上手くことが運ばないとき><自立について>でも説明したように、生きることとは、いろいろなことが起きます。これは、人為的なものもありますが、不可抗力も多く、ある意味、人智を超えているものもあり、選択できないこともあります。不運や否定的感情に支配されず、出来事から逃げず、向き合い解決していくことに、苦難ではありますが感動ありの生きていく、生きる目的の一つがあるように思います


正負の連鎖


繰り返しになりますが、生きることは、様々な出来事が起こり、それをどう乗り越えていくか?そのためには、まず事態に向き合うことが必須です。つまり逃げないことです。それにより、様々なことを学ぶことになります。苦痛でありながらも、事態に変化をもたらすことで感動体験を得ることになるのです。
そのための条件は、正の連鎖なのです。
今まで述べてきた中で例を挙げて説明していきましょう。
たとえば、自立を軸に見てみます。  
 自立とは「自分のことは、自分で考える意識と、出来うることから目標を持って努力する行動力、そして手に負えないようであれば人に助けを求め、人に協力をする」と捉えられます。自立の中のそれぞれの要素が言動の中で確認された場合、同時期に目標を持ち努力して取り組んでいる、その目標が努力により手に入る現実的なものである、その現実的目標は、自己や現状を受け入れて現実的な視野で導き出されます。更に判断に迷えば人に相談すること、つまりコミュニケーションをとることで、偏らず、また、視野を広げ、適切な方法が手に入りやすくなり、孤立的な心境に陥らずに済みます。
物事を処理していく、また目標を手に入れるためには、事態を冷静に見て妥当な方法で解決また達成していくわけですが、不安や認識の偏りが著しいと事態を冷静に捉えられず、 目標自体が不適切で事実も歪曲して捉えられており、処理できることまたは目標自体を手に入れることは困難になります。不安や認識が軽減また妥当になる為には、自分の状態を知る必要があるし、また受け入れる必要もあるのです。
このように今まで取り挙げてきたテーマは連鎖しているし、連鎖するものなのです。  
 自立が進めば、年を追うごとに親の手を離れていくわけですから、親にとっては、楽になり、我が子を頼もしく観ている状態になるわけです。  
一方、負の連鎖は、まさに正の連鎖と逆で同じ自立を軸に見てみましょう。
負では自立が進まない、つまり依存状態にあり、内訳は、自分のことであっても人に頼むし、自分事なのに他人事のような認識、快楽を満たすための行動が多く、上手くいかないと他人や運命のせいにして、解決に向けて動かない。
同時期に周囲との軋轢、一方的な主張や人のアドバイスを受け止めないことにより、円滑なコミュニケーションがなり立ちにくい。孤立化が進み、精神状態が不安定で些細な出来事で過剰な反応をする。望まない事態は、受け止めようとする意識は稀薄で、逃避するか、他者批判をして自らを振り返ることもない。事態は硬直もしくは、悪化して時間経過とともに心的苦痛は、増して、より依存に伴う言動が強くなるか、もしくは、内にこもる(自虐的、強い自己否定、周囲との関係遮断など)ことが進行します。周囲の人はこの状態に希望を見出せず、気の重さは、増していき、疲弊することになります。


<誤解されやすいこと見落としやすいこと>


相談場面で「最近、落ち着いています」「問題がなくなった。減った」など、事態がよくなったと言われることがあります。嬉しいことですが・・・ 気をつけてみないと、本当ではなかったことが、後にわかることがあります。
それは、環境が問題を起こさせ難い状態にあることや負荷の加わりにくい状況になっている、適応(後に過剰適応だと分かる)して問題がない、さほど困った状態ではない、個人の問題だけでおさまっていて、人に迷惑もかかっていないなど生活上支障もないのですが、この状況にあっても注意を要するものがあるので例を挙げてみましょう。 
時々、学校を休みたいと言うけど行っているし、行けば普段と変わらない生活態度で過ごしている、学校のことをあまり話さないし、聞いてもはっきり答えない、体の不調(頭痛、吐き気、めまい、腹痛など)を訴えるが、診察してみて何も問題がない、不安をよく訴える、確認を求めることが多い、変なクセが出てきたり、強まったり、感情的になることが増えてきた、下校後に疲労を訴える、友達と関係をとっているエピソードが少ない、出来事に対して感情表現が少ないなどです。
いずれも、生活上与えられたことはどうにかこなしているし・・・何か決定的に行き詰っているものはない状態です。単発であれば要注意ですが、深刻な状態に移行する場合は、上記の出現が二つ以上あり、状態の改善がないか、やや悪化してきている。さらに前項の「正負の連鎖」で正の連鎖の出現がない状態で、何もしないでおくと、かなり高い確率で不適応状態に移行していきます。不適応とは、たとえば、不登校、引きこもり、精神病(的症状含む)、暴言・暴力などで、一度これらの症状が出ると解決、改善には、多大なる時間と労力を要します。
ですから、注意を要するものがあれば、注意がいるわけです。難しいのは、上記のように決定的に困った事態ではないことや心身の不調をあまり訴えない場合も多々あり、見過ごされることも珍しくはないのです。
では、見過ごさないようにするためには、日頃の円滑なコミュニケーションが取れることが必要で、人間関係がよくないと出来ません。そのためには相手を理解しよう受け止めようとする気持ちが必要になるわけです。 様子が変であることは、このように相手を知ろうと意識することで分かり易くなるものです。 また、気になることの原因が特定されて本人にもその自覚があればいいのですが、大抵は原因が見出せない例が多いものです。だから適切な援助も見出せないで、場当たり的な誤支援を招き易く、事態は深刻化していくのです。



<大切な時期>

 

良い結果がでている時、問題を抱えながらも安定している時、問題が沈静化している時、いずれも良い状態であるので、これだけで判断して「様子を見てみよう」は、実は、適切とは言い切れないのです。
それは過剰適応や環境変化により事態悪化が一時的に抑止されていて、本質が変わっていない場合があると前項で説明しました。ただ逸脱的な言動が少ない状態でもあるので、ストレス負荷も少なくて、正の連鎖の軌道に乗せ易い大切な時なのです。
理性的に判断しやすいし、適切な行動が取りやすい時期でもあるからなのです。 つまり適切な判断は、適切な行動を生み出して事態を改善して行き易いからなのです。 自信を得て不安が減少して行きますし、自己肯定感を得やすく、目の前の困難なことにも向き合いやすくなることで、正の連鎖を起こし易くなる結果、ストレス耐性も高め、目標達成に向け、活性が高まっていくのです。ここまでくれば、よほどのことがない限りは、この良い状態は崩れ難いし、困難なことが起こっても向き合い事態解決に向けた意識と行動が起きていますのでおおよそ大丈夫といえるのです。事態の改善と正の連鎖が出現、これが大切なところなのです。
この大切なところを確認せず、表面的に見て問題ない?=大丈夫と軽々に判断をすべきではないのです。


<支援をしていく目的>


「支援をすること」今、多くの領域で使われる言葉です。手厚いそして充分な支援は、安心感を与え、良い方向に行くものとのイメージを抱きます。
支援をしていくことで事態の改善を図る、問題を解決する、スキルを高めることなどでしょう。しかし、いつまで、続けるか、支援そのものが必要とされない状態になれば終わるのかも知れません。しかし発達障害や集団適応を困難にしている原因の完全なる解決は望めない現実やそれに関連した問題は多くあるのです。では、どこまでにするか・・・
完全なる解決は望めないにしろ、何かしらの問題や困難を抱えつつ生活をしているのが人なのです。世の中にはそうであっても事態に向き合い活路を見出して生活している人は多くいます。つまり問題に向き合い、出来うることを努力し、生活しているからだと思うのです。支援をすることを否定するつもりはありませんが、実際、生活適応が進んだケースは、支援が必要ないか、あってもわずかなのです。それを起こしている原動力は外部の支援ではなく内部からの事態に向き合い打開しようとする意識と行動力なのです。支援自体は受身的であって能動的なものではありません。これを成長することとあわせて見ると、逆行するのです。支援は与えられ、成長は自立的方向なのです。
この方向性は本来、人が持ちえているもので、自然なことです。支援は必要なことであっても適切であるべきで、すなわち過不足なく与えられ、成長と共に減じていくもです。時間経過と共に減じないのは、例外はあるにしろ支援自体に誤りがあることが多いのです。




次回のテーマは「こどもの素顔(思い)」です。